カニカマかに玉


《天津飯とかに玉と芙蓉蟹》

子どもの頃、中華料理屋に「天津飯」というものが存在することは知っていたが、食べたことがなかった。

中華でご飯にかけるあんかけといえば当然のように「八宝菜」だと思っていた。


一方「かに玉」を知ったのは、永谷園のテレビCM「広東風かに玉」で 1986年(昭和61年)に発売されて以来人気のロングセラーであるが、これも食べたことがない。


「芙蓉蟹(ふようはい)」を知るのは東京で中華料理屋に入ったときのことで、なるほど中国語では「かに玉」のことを「芙蓉蟹」というのか・・と理解した。でもこれも食べたことがない。


     ◇

つまり「天津飯」も「かに玉」も「芙蓉蟹」も一度も食べたことがない。忘れているだけかと記憶をふり絞っても記憶の片鱗もない。

食べるのは結構好きなほうだと思っていただけに我ながら不思議、食べたことがなかった。



📚


念のため「かに玉」と「芙蓉蟹」は同じものか調べてみた。

古い本のほうが本来の出自に近いと思うから昭和34年(1959年)の本から引用してみる。

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芙蓉蟹(フーヨンシイエ)
かに玉と呼ばれて、説明の必要もないほどに親しまれてきた料理です。
芙蓉の花のように軽く、また、ふんわりとした味覚のことを芙蓉ということばで現わし、他にも卵で柔らかく調理したものに芙蓉という語を冠しています。例えば芙蓉鶏片などがそうです。

なお、北京、上海一帯ではこれを、芙蓉炒蛋ということが多く、またあんをかけずにいただきます。
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なるほど 🤓 かに玉=芙蓉蟹という認識で問題なさそう。但しあんかけスタイルは日本風ということのようだ。




この「かに玉」をご飯にのせたものが「天津丼」である。

🍚×🍳


さて問題はあんかけの味つけだが、一般的に関東ではケチャップベースの甘酢、関西では醤油ベースである。

なぜだろうなぜかしら。




大正15年に出版された『食通の喜ぶ豆腐と玉子の珍料理』に「芙蓉蟹」があるが、あんについては「温かい内にソースを添えて侑(すす)めます」とあるだけで味つけには触れていない。

また、同じ年に出版された『手軽に出来る珍味支那料理法』には「芙蓉蟹粉(かにたまごやき)」と「芙蓉蟹仁(えびたまごやき)」が紹介されているのだが、ここでも「ソースを添えて供します」とあるだけでソースの味はわからない。

当時は「ソース」の共通認識があったのだろうか。




ちなみに冒頭に紹介した本では「芙蓉蟹」のあんは関西風の醤油ベースだ。

担当は「NHKきょうの料理」で講師を務めた中国料理研究家の王馬熙純氏(1920年頃のハルピンの生まれ)。


そう考えると、戦後少し経った1960年代以降の東京で発生したと考えるのが自然なように思われる。陳建民氏が考案した「エビのチリソース」とも関係しているのかもしれない。


     ◇

いつかひょっこりその由来に出会えることを楽しみに☆彡


日本の食卓に うましかて!


おいしい料理を作るコツ (7)

前回からのつづき)



温かい料理は温かく、冷たい料理は冷たく涼しげに。

当たり前すぎてコツともいえないが、真冬は食器が冷え切っているからそれらを温めるだけでもひと苦労ではある。

     ◇

器にお湯をはって温めるのが一般的だが、置いておくスペースの問題もあって、わが家ではオーブンレンジが活躍する。

●器に水をはって電子レンジの温め機能を使う。
ふたり分だから皿2枚か丼2つ、電子レンジでちょうどサイズ。皿2枚ならそれぞれに水をはって重ねて温める。取り出すときは火傷に注意。

●オーブン料理のときは同時にオーブンの上で取り皿を温める。

●出来上がった料理は低温に温めたオーブンの中で保温する。

●蓋がついた食器を用いる。
お椀、茶碗蒸し、シチューポットなど蓋があるだけで驚くほど熱をよく保つ。



《電子レンジ&オーブンがウォーマー代わり》


その点、夏は手軽だ。

冷蔵庫のおかげで食材や器を冷やすのは、冬に器を温めることに比べたら各段に処しやすい。



《冷たい料理は涼しげに》


ただ、少し考え方を変えてみると・・・

夏はいかにも涼しきよう、冬はいかにも暖かきよう- といったのは利休居士。

 -利休七則-

 茶は服のよきように
 炭は湯に沸くように
 夏は涼しく、冬は暖かに
 花は野にあるように
 刻限は早めに
 降らずとも雨の用意
 相客に心せよ


利休の時代には冷蔵庫もガスコンロも電子レンジもない。クーラーも床暖房もない。

現代を生きていたらどう思っただろう。


     ◇


花は野にあるように

常備菜は熱すぎず冷たすぎず室温を旨とする、と言ったかもしれない。


家庭で食べるものは熱いか冷たいかどちらか二極化し過ぎて常温で食べるものが減っている。

忙しい毎日、冷蔵庫から出してすぐ電子レンジ。


室温で料理を食べるには時間のゆとりが必要だ。




常温で食べる常備菜。

今の時代これが何気に贅沢なことなのかもしれない。


(つづく)


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ポテとカレーとカレーうどん(後編)

前編


ポテを作ったときの最後の〆はカレーうどん☆彡

わが家の「カレーうどん」は丼の底にカレーライスをしのばせた「カレーライスうどん」🍛

底にしのばせるご飯は予めルーと合わせてアツアツにしておいて、上に乗せるうどんは稲庭うどん☆彡

この組合せが気に入っている。

     ◇



もう随分と昔になるが、目黒の不動前駅の近くで「おじやうどん」を食べたことがある。

何だろう?と思って頼んでみたら鍋焼きうどんにご飯が入っていた。東京なのになぜか関西風のだしがきいててとても美味しかった。

ネットで調べたら今も健在で嬉しい(丸福)。

     ◇

ご飯と麺が混在した料理は「おじやうどん」以外に見かけないが、歴史のなかに探してみると戦時中に登場する。



当時の婦人雑誌に次のようなレシピが紹介されている。

●シチュー雑炊
配給肉の脂身とあり合わせの野菜で作ったシチューにうどんとご飯を入れる。味つけは塩と胡椒。

●うどん雑炊
煮干しだしにあり合わせの野菜、細かく折ったうどんを加えて軟らかくなったら味噌を溶いてご飯を加える。

●うどん焼き
うどんを細かく折って半日以上水につけてどろどろにすり潰し、小麦粉(または芋類や雑穀粉などあるもの)を加えてフライパンで焼く。


●洋風とうもろこしご飯
とうもろこしを茹でてすり潰し、水と小麦粉でドロリと煮て、ご飯にかけて食べる。味つけは塩と胡椒。

●焼きおじや
おじやに芋やパンの切れ端などを入れて、小麦粉を加えてフライパンで焼く。




厳しい食糧事情のもとで生まれたごちゃまぜ増量レシピだ。




醤油や味噌も配給制だから、味つけは塩と胡椒だけのものが多い。あればカレー粉、牛乳、ミルク、トマトで味つけをとある。

あまり食指が動かないなぁ… と思って読んでいたら、著者の言葉で複雑な気分になった。

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注意したいのは、このころには材料の分量がほとんど示されなくなっている点だ。何グラム、大さじ何杯といった分量を提示できるのは、素材が自由に手に入る平和な時代ならではのレシピだったのである。
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当時の状況を補足説明しておくと( ..)φ

昭和16年(1941年)に主食の米が一日一人当たり330グラムの配給制となったのが始まり。

翌年の夏には麦と麦の加工品が主食の枠に加えられる。(米330グラムに対して乾麺なら375グラム・小麦粉なら350グラムに換算して配給)

精米も当初は七分づきだったが、「つき減り」を減らすため五分づきとなり、最後は玄米のまま配給される。

乾パン、とうもろこし、さつまいも、じゃがいも、大豆での配給も増える。

敗戦直前の昭和20年7月には配給の基準となる米の量も300グラムになった。1割も減っている。

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このような状況では、家庭の料理が[ご飯+うどん+小麦粉]ごちゃまぜになるのも当然で、分量も必要ない。とにかくあり合わせのものを何でもかでも入れて増量するしかなかった。

「おじやうどん」はそういう時代の名残りだ。




もちろん今ではだしがしっかりきいて具沢山の美味しい「おじやうどん」であるが 🤓

     ◇

話はすっかりそれたが、わが家ではポテを作った次の日はカレーライス🍛

そして、〆日の最後は一皿で二度おいしい「カレーライスうどん」の出来上がり☆彡


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オマーン産のさやいんげんと鶏そぼろ丼


インゲンマメ(隠元豆)学名:Phaseolus vulgaris
マメ亜科の一年草

インゲンマメの若い莢が「サヤインゲン」である。

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日本へは17世紀に明の僧侶・隠元隆琦(いんげんりゅうき)がもたらしたとされる。



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隠元豆は長崎にては八升豆といふ 此種は承應三年唐僧隠元来朝の節持来りて本邑興福寺の内に作てこれより處々に流布す
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長崎地名考 附録』(明治26.11)


ここに出てくる「興福寺」というのは、1654年(承応3年)に長崎に渡来した隠元禅師が最初に住職をつとめた寺である。

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インゲンマメには「サンドマメ(三度豆)」「サイトウ(菜豆)」など様々地方名があるのだが、明治時代に編纂された山口県の方言を見ると同じ県でも多くの呼び名があるのは興味深い。


多くはインゲン、エンドウ、ササゲ、サヤマメ、サンドマメが訛ったものだが、ひとつひとつ見ていくと面白い。



山口県植物方言集』(昭和18)


カワクヒマメは莢を食べるから「皮食い豆」、トーマメは「唐豆」、ミドマメは「三度豆(サンドマメ)」の読み替えだろうか、ボーズマメはひどい言い様だが隠元和尚の「坊主」、カキマメは若い莢を収穫するから「摘む」という意味の「カク」だろう。

ショーエンドーのショーは何だろう、ナマメとカンドーマメは想像がつかない。🤓



さて話を現代に戻そう。

最近よく見かけるオマーン産のサヤインゲン。



資料を見ていて興味深く思ったのは、冬場に取れる沖縄産の多くが東京に出荷され、関西には流通しないことだ。

それをオマーン産が補う形になっていて、大阪市場の30~40%を占めている。

だから東京でオマーン産のサヤインゲンを見かけたことがなかったのだなあ。


参考:野菜ナビ「さやいんげん」 alic「さやいんげんの需給動向




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今日は久しぶりに鶏そぼろを作ったので、オマーン産のさやいんげんとそぼろ三色丼☆彡


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かつ丼


カツどん【カツ丼】
豚カツを、タマネギの薄切りなどを加え、甘辛い汁で煮つけて卵でとじ、どんぶり飯の上にのせた料理。

出典:デジタル大辞泉(小学館)「カツ丼

     ◇

カツ丼と聞いて思い出す文豪はといえば、やはり永井荷風氏をおいて他にいない。

最後に食べたのが「大黒屋」のカツ丼であるというのは有名なエピソードだ。




永井荷風氏は40年に渡って日記を書き続けている。(1917年(大正6年)~1959年(昭和34年))

イキイキとした日記は、敗戦後ふっつりと感じがかわり、陰鬱とした感じがつきまとうようになる。

     ◇

だが一方で、1921年(大正10年)42才のときにすでに自身の孤独死を予感してもいる。

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いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。

唯ただその頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。

これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。

秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終って行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。
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雨瀟瀟』 永井荷風 (青空文庫)




永井荷風氏は1959年(昭和34年)4月30日に亡くなった。

ひと月前の日記をみると…

 三月十日。  雨。病臥。
 三月十一日。晴。正午大黒屋食事。
 三月十二日。晴。嶋中高梨二氏来話。病臥。大黒屋晩食。
 三月十三日。晴。正午大黒屋。
 三月十四日。晴。正午大黒屋。相磯氏来話。
 三月十五日。日曜日。晴。正午大黒屋。
 三月十六日。晴。正午大黒屋。
 三月十七日。雨また陰。正午大黒屋。
 三月十八日。晴。正午大黒屋。
 三月十九日。晴。正午大黒屋。
 三月二十日。晴。正午大黒屋。


3月1日に浅草で倒れてからは病床に伏し、亡くなる最後まで毎日の食事は「大黒屋」のカツ丼である。

胃潰瘍で亡くなるのに毎日カツ丼というのはすごい。。

4月30日の朝、通いのお手伝いさんが荷風の遺体を見つける。3月31日、最後の食事も大黒屋のカツ丼だった。






大黒屋」は昨年6月に店を閉じた。(実際の店の名前は「大黒家」だが、荷風は「大黒屋」と記している)

     ◇

そういえば、映画『濹東綺譚』で主人公・大江匡を演じた津川雅彦氏も今年8月に亡くなった。

『濹東綺譚』は永井荷風のヒット小説で、大江匡は永井荷風の分身である。


すこしずつ昭和が遠くなる。


🍲


今日はめずらしくカツ丼☆彡


日本の食卓に うましかて!
 (お味噌汁の位置が逆だった。。)


ねぎとろ丼と土佐醤油


ねぎとろ【葱とろ】
マグロなどの皮の裏にある脂身や中落ちの身をそぎ落とし、きざんだアサツキなどを散らしたもの。軍艦巻きや丼ものにする。

[補説]語源未詳。口に入れると、とろりと溶けるような食感からともいう。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

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今日はねぎとろ丼☆彡
土佐醤油に卵黄を混ぜたタレを作ろうと思う。



戦後、醤油の品質が著しく低下したらしく、良質な醤油の見分け方についていろいろな人が書いている。


辻嘉一氏も『懐石傳書 煮たもの』(昭和40年)の中で、良否を見分けるには自分の舌が第一であると断りつつ、色や泡立ちなど見た目の判断の仕方を示してくれる。

なかでも番茶を使った方法は面白い。

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番茶を濃く煮出してから冷まし、醤油の三分の一量の番茶を、醤油にまぜ合わせ、五分後、十五分後にその醤油味を吟味しますと、純良のものは醤油味が厳然と残りますが、不純なものは段々と希薄になって行きます。
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また、[うま味]と[醤油味]に分けて説明してくれる。

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最初の一なめに醤油のうまさが感じられ、その後に尾を引く余韻のうまさにも醤油味が感じられるものでなければなりません。

鐘の音にたとえれば、ゴーンと鳴る音がうま味で、その後微妙な甘味や苦味などが余韻として長く残るものが醤油です。

(略)

醤油の味の中に、なめるなり甘さや塩味をきわだって感じる醤油は求めてはなりません。

調味に甘味や塩味が必要ならば味醂や砂糖、塩を加えればよいのです。醤油には、醤油のうま味さえあれば十分なのです。
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懐石傳書 煮たもの』 辻嘉一 (昭和40年)





「土佐醤油」=[醤油]+[味醂]+[日本酒]+[かつお節]を煮てこした調味料



これに卵黄を混ぜ合わせる



溶いた卵黄に土佐醤油を混ぜて



丼にご飯をよそって、海苔をちぎり入れて



今日はとろろも乗せる



白ネギを混ぜたねぎとろを乗せて



うずらの卵とカイワレを飾って出来上がり☆彡


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鰻丼


うなぎどんぶり【鰻丼】
どんぶりに入れた熱い飯の上に鰻のかば焼きをのせ、たれをかけたもの。うなどん。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

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若い頃はスタミナご飯といえば、甘辛いたれの焼肉やガーリックのきいたステーキが好きだったが、いつ頃からだろう。

今では鰻や天ぷらのほうが美味しく食べられる。




子どもの頃、土曜日のお昼ご飯に鰻のかば焼きがちょくちょく食卓にのぼった。

当時は、軽トラのおじさんが魚を売りに来てくれていて、生きたうなぎをその場でさばいてくれた。


母がガスコンロの網で鰻を焼いていて、傍らで頭と背骨を煮たてたタレの小鍋がいい匂いを放っていた風景がなつかしい。




文筆家に鰻を好んだ人は多く、みなそれぞれ贔屓のうなぎ屋があった。


熱海・西山にあった「重箱」には、志賀直哉、谷崎潤一郎、広津和朗、安井曾太郎、梅原龍三郎、里見弴、早々たるメンバーが通っていた。

久保丹万太郎の幼なじみ大谷平次郎が店主(五代目)であったこともある。

現在は八代目当主が「赤坂 重箱」を営む。




大のうなぎ好きの斎藤茂吉は銀座築地「竹葉本店」の鰻を好んで取り寄せた。

晩年には好物のうなぎが脂っぽく感じられるようになったことを嘆いて「ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする」という歌を読んでいる。


池波正太郎は駒形橋「前川」、林芙美子は深川「みやがわ」、丸谷才一は飯倉「野田岩」だ。

出典:『食味風々録』阿川弘之、『酒肴日和』池波正太郎、『文人悪食』 嵐山孝三郎、『食通しったかぶり』丸谷才一

嵐山孝三郎氏の本では林芙美子は深川「みやがわ」といっているのだが、芙美子の頃には深川「宮川」はすでに廃業しているようなので、おそらく築地の「宮川」のことだろうと思われる。


     ◇

私はといえば東京に住んでいた頃は、東急東横店のれん街に入っている「宮川本廛」のうな重弁当がお気に入りだった。

京都に越してからはまだ見つけていない。




話はすこし変わるが、美食家として有名なひとに北大路魯山人がいる。

気難しい人物としても有名で、美食に関しても痛烈な言葉を数多く残している。

興味あれば青空文庫の『味覚馬鹿』(北大路魯山人)を眺めてみると雰囲気を味わってもらえるだろう。




さて、この魯山人なのだが、意外や意外、養殖うなぎを肯定しているのは興味深い。


1935年(昭和10年)のエッセイから引用しよう。

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養殖うなぎでもよい餌を食べている時は美味いし、天然のうなぎでも彼らの好む餌にありつけなかった時は、必ずしも美味くはないと言える。

要は餌次第である。

天然に越したことはないが、養殖の場合でも、それに近いものが望まれる。




天然うなぎは餌が天然という特質があるために、概して美味いと考えてよい。もちろん良否はあるが。

養殖うなぎにもとりわけおいしいものがあるが、よほどよいうなぎ屋に行かなければならない。




美味の点から言って、養殖法がもっと進歩して、よいうなぎ、美味いうなぎで心楽しませて欲しいものである。
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やみくもに天然をありがたがるようなことはしない、魯山人は是々非々の人だったのだなぁと思う。


ちなみに魯山人が一流店として名前を挙げたのは「小満津」「竹葉亭」「大黒屋」の3つ。

現代的なものに風流風雅を取り入れた感じのよい店だといっている。

魯山人味道』 -鰻の話- 北大路魯山人


     ◇

甘めのタレをたっぷりとご飯にしませて



うなぎをのっける



うなぎの蒲焼きには奈良漬けが好きだ☆彡


日本の食卓に うましかて!






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