バターチキンカレー(2)バター


今日はバターの歴史から☆彡

日本で初めてバターが製造されたのは明治5年(1872年)、明治維新から4年後のことだ。

東京麻布の北海道開拓第3官園実習農場で試験的に作られたのが最初とされる。

参考:「バターの歴史」日本乳業協会Jミルク


「官園(かんえん)」とは、米国・欧州から農業技術を導入するにあたり(気候が寒冷な北海道開拓のため)その試験を行う場所のことで、1870年に設置された北海道の七重官園(渡島国亀田郡七重村)を皮切りに、札幌官園、東京官園、根室官園の4つが作られた。


東京官園(1871年9月設置)の立地は次の通り。

1号 東京府青山南町 松平頼英邸跡(4万坪弱)
2号 青山北町 稲葉正邦邸跡(5万坪)
3号 麻布新笄町 堀田正倫邸跡(5万坪弱)

1~3号を合わせると14万坪!青山墓地(263,564㎡≒79,867坪)の2倍近くある。



Wikimedia commons:ホーレス・ケプロン

東京官園でバターの試験製造を指導したのは米国人のホーレス・ケプロン氏だったであろう。

札幌農学校の開校に道筋をつけた人で、開拓次官だった黒田清隆氏に懇願されて来日した。(札幌の大通公園にはケプロン氏と黒田清隆氏の像が並んで立つ)

ケプロン氏が来日したのは1871年7月、その2ヶ月後に東京官園が設置され、さらにその翌年にバターの試験製造が行われた。


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ケプロン氏は着任するとすぐに2人の若手技術者を呼び寄せている。



 左:ルイス・ベーマー氏 1872年着任(28才)
 右:エドウィン・ダン氏 1873年着任(23才)


ケプロン氏は1875年(明治8年)5月に帰国するまで「開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問」として働いた。帰国時の年齢は70才だ。


若きベーマー氏とダン氏は、その後10年にわたって日本に滞在し、果樹栽培やビール用ホップの自給化、牧羊・牧牛、乳製品の製造、ハム・ソーセージの加工技術などの技術指導を行った。


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1873年に撮影された21才の明治天皇の御写真。


Wikimedia commons:Portrait of the Emperor Meiji


ケプロン氏の着任にあたり、明治天皇が勅語を出されている。

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開拓使雇米人ケプロンへ勅語
明治四年八月二日

汝米利堅合衆国に在て農学局の長官となり其学科を研究し勧農の事業に通暁せし由

朕之を欽慕して遠く汝を徴して我北海道開拓の長官次官を輔け其事務を司らしめんと欲す

汝能く朕が意を體し合議協力以て開拓の成功を奏せしめよ是朕が大に汝に望む所なり
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ここでいう「北海道開拓の長官次官を輔(たす)け」という開拓次官は黒田清隆氏のことだ。

このとき明治天皇の御年19才、黒田清隆氏31才、政府全体が起業したばかりのベンチャー企業のように若い。



Wikimedia commons:黒田清隆


また、帰国に際しても明治天皇の勅語が残っている。
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開拓使雇米人ゼネラル、ホーレシ・ケプロンへ勅語
明治八年三月二十八日

朕曩(さき)に汝を開拓使に聘し北海道開拓に従事せしむ

汝能く長官を補佐し黽勉職を画すを以て事業皆其要を得て日月に進歩せり

朕深く之を嘉賞す

将来全道の繁殖を致し我国家の洪溢たらんこと復た疑を容れさるなり

今期満て帰らんとす
朕汝が功労を評して将来の幸福を望む
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出典:『明治詔勅全集』訪日時帰国時


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明治18年になると民間によるバター製造が本格化する。

文明開化で西洋文化を急速に取り入れる一方、禄を失った士族たちの中には、自分の敷地に牛小屋を造り、牛乳搾取業を起こす者もあった。

牛乳搾取業を営んだ明治の元勲には、松方正義氏、由利公正氏、阪川当晴氏、副島種臣氏、榎本武揚氏、大鳥圭介氏、山縣有朋氏、大久保利通氏らがいる。

なかでも榎本武揚氏の北辰社(飯田橋の北辰社牧場を経営)はクリーム分離機と回転チャーンを導入し、本格的なバター製造の先駆けとなった。




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ちょうどこの時期のことを物理学者・寺田寅彦氏が子ども時代の思い出として書いている。

明治18年、寅彦少年7才(数え8才)、これがなかなか面白い。



高知に暮らしていたが、途中1年だけ東京の番町小学校に通った。

そこで少年が見た昼の弁当… 🍱

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八九歳のころ医者の命令で始めて牛乳というものを飲まされた。

当時まだ牛乳は少なくとも大衆一般の嗜好品でもなく、常用栄養品でもなく、主として病弱な人間の薬用品であったように見える。

そうして、牛乳やいわゆるソップがどうにも臭くって飲めず、飲めばきっと嘔吐おうとしたり下痢したりするという古風な趣味の人の多かったころであった。



もっともそのころでもモダーンなハイカラな人もたくさんあって、たとえば当時通学していた番町小学校の同級生の中には昼の弁当としてパンとバタを常用していた小公子もあった。




そのバタというものの名前さえも知らず、きれいな切り子ガラスの小さな壺にはいった妙な黄色い蝋のようなものを、象牙の耳かきのようなものでしゃくい出してパンになすりつけて食っているのを、隣席からさもしい好奇の目を見張っていたくらいである。




その一方ではまた、自分の田舎では人間の食うものと思われていない蝗(いなご)の佃煮をうまそうに食っている江戸っ子の児童もあって、これにもまたちがった意味での驚異の目を見張ったのであった。
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出典:『コーヒー哲学序説』寺田寅彦(青空文庫)
参考:寺田寅彦記念館友の会「寺田寅彦年表・資料


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土佐から東京に転校してきた少年が見たふたつの弁当。

切子ガラス壺に入ったバターを象牙のナイフでパンにつけて食べる同級生。そのバターは北辰社製のバターだったかもしれない。

片や、いなごの佃煮を美味しそうに食べる江戸っ子の同級生。

まさに江戸と文明開化のはざま、弁当から垣間見る文化の違いに衝撃を受けただろう。


ちなみに、明治18年というと夏目漱石と正岡子規が大学予備門に通っていた頃でもあって、若き漱石・子規が生きた時代はバターひとつとってもダイナミックな変化の時代だったのだなあ… ( ..)φ



バターの話はこのくらいにして次回は「カシューナッツ」☆彡

つづく