栗の渋皮煮


しぶかわに【渋皮煮】
渋皮がついたままの栗を、あく抜きをした後、砂糖を加え煮たもの。

出典:デジタル大辞泉(小学館)「渋皮煮

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栗の渋皮煮は日本に古くからある食べ物かと思いきや、意外にも調べてみるとよくわからない。

郷土料理として掲載する自治体は多いのだが、地元の栗の歴史はあっても「渋皮煮」に関する発祥や歴史を説明するところがが見当たらない。



日本の古い文献に登場するのは「搗栗(かちぐり)」「乾栗(ほしぐり)」である。

●搗栗(かちぐり
栗を太陽に乾すこと30日、すっかり乾いたらそれを炒り、臼でついて鬼皮を砕いてから渋皮を剥く。さらに太陽にさらして完全に乾燥させる。

●乾栗(ほしぐり)
栗を蒸籠(せいろ)で蒸して、筵(むしろ)に並べて陽にあてて乾燥させる。それを苞(つと)に入れて、囲炉裏の梁のうえにかけて保存する。(つとは藁を束ねて食品を包むもので、納豆が入った藁の束を思い出してもらえたら)

参考:国立国会図書館デジタルコレクション「日本山林副産物製造編」明19.5




家庭料理に詳しい辰巳浜子さんと水上勉氏、それぞれ明治と大正の生まれである。

●辰巳浜子さん 1904年(明治37年)生まれ
渋皮煮という話のなかで、「ニ十数年前、さる風流な方のお宅で見事な渋皮煮をご馳走になりました」から始まる文章を書いているが、どのように作るのか分からず試行錯誤したとある。

昭和37年~43年に執筆された文章なので「ニ十数年前」は昭和に入ってしばらくした頃だろう。


●水上勉氏 1919年(大正8年)生まれ
焼き栗(炉の炭火脇の灰の中で焼くのがいちばん、渋皮もこげるほどに焼く)、栗めし(渋皮の少し残るくらいの栗で炊くのがいい、といっている)、栗ぜんざいのときは渋皮を丁寧に取り除く、そして、話はカチ栗へと続く。

料理歳時記』辰巳浜子 『土を喰う日々』水上勉


辰巳さんは今でいう料理研究家の草分け的存在であり、水上氏は少年時代を禅寺で過ごしている。

伝統的な家庭料理なら辰巳さんが知っているはずだし、精進料理の流れであれば水上氏が知っているはずだ。

水上氏は栗めしの作り方をみても渋皮に思い入れがあるから、もし渋皮煮が明治以前からのものならきっとそれにも触れただろうと思うのである。




文献をいろいろあたっても戦後に忽然と登場する「渋皮煮」

もしかすると、明治時代に欧州のマロングラッセに似せて考案されたものなのだろうか…とも想像する。

いつか由来が分かったら追記しよう。


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さて渋皮煮づくり、今回初めて作る。



使わないままのベーキングパウダーが眠っていたので、これを使う。(重曹の炭酸水素ナトリウムを含んでいるのだからよししよう)



話がそれるのだが、栗のアク抜きについて辰巳浜子さんと長女・芳子さんの違いが興味深いので紹介しておこう。

●母・浜子さん
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藁灰のアク水でアクを出し、銅鍋に落し蓋で気長にふくませを作ります。形をこわさぬ工夫も大切ですが、とろりと溶けるようなやわらかさと、栗の持味を失わぬように煮るのが好きです。
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●娘・芳子さん
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母は存命中、渋抜きは灰汁(アク)に頼っていました。渋皮の初段階の渋抜きまでは灰汁が適正でしたが、それから先は疑問が残っていました。何年かたって、ベッドの中で「あれには、牛乳を」と直感的に思いました。実験的にむき栗を水割り牛乳につけておくだけでも、そのつけ液が灰色を帯び、それにしたがって栗の実の色も黄味を帯びるのを認めました。

静かに炊けば、上に灰色を帯びた泡が寄り、瀬戸引きの鍋のふちには、やにようにに渋がねばりついてきます。(略)以来「牛乳はやはり母なるもの」と感謝しつつ、あらゆる渋み、苦味の手当てに牛乳を用いています。

さらに時を経て、渋のもとであるタンニンは、牛乳のカルシウムが解消することを知りました。科学的裏付けがあったのです。
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娘・芳子さんはフランス料理の加藤正之氏に師事したこともあって、さまざまな料理のなかで母・浜子さんのレシピに西洋風の改良を試みている。

料理歳時記』辰巳浜子 『いのちをいつくしむ新家庭料理』辰巳芳子





閑話休題。

ベーキングパウダーを加えて煮る、流水でやさしく洗いながら余分な渋皮を取り除く、これを4回繰り返す。



2回目、まだまだアクがすごい。



4回目が終わると、だいぶ茶渋色が抜けてきた。



砂糖を加えて静かに30分ほど煮る。



最後にブランデーを少し加えて



栗を取り出してから煮汁を煮詰めて



最後に栗に絡めて出来上がり☆彡


日本の食卓に うましかて!




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